たんぽぽの会
震災復興を応援する仲間の会です
201704<<12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>201706
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
たんぽぽの会立ち上げにあたって
このたび震災復興支援の会「たんぽぽの会」を立ち上げました
今後は、当会の活動や、その中で学んだこと等を随時ブログに載せてまいります

まずは、私の身内の被災をきっかけに、最初は個人の活動から「タンポポの会」立ち上げまでの経緯を綴ってみました

妻の実家が被災して

私はもともとはボランティア活動をあまりやる人間ではなかった

震災による津波で石巻にある妻の実家が被災したことを知る

その後更に、実家の義姉がゆくえ不明であることを知る

テレビ報道で津波後の惨状を見て、最初は見に行くのがこわかった

家内はこちらにいないので(私を置いて東京の娘のところに行っている)、近くにいる私が行かないわけにはいかないなと思った

最初はガソリン入手困難の折、自転車で石巻の実家に向かおうとした(片道約70km)

しかし後10kmのところで、道路がすごい土砂崩れが起きていてそれ以上進めなかった

地図で行ける道を調べ、2日後に今度は車で衣類などの物資を積んで山越えして向かった

実家が近づくにつれて今まで見慣れた実家付近の景色がまったく変わってしまっている

ここにあった筈のまだ新しい立派だった実家がまったく痕跡もなくなっている

ここまでひどかったとは!

あまりの惨状に被災地に行った人は皆そうだと思うが心が痛かった、

その後、義兄のいる中学校の体育館だった避難所に行ってみた

「わざわざここまで、よく来てくれたなあ」と義兄に労をねぎらってもらった

私の方こそ、兄を慰め、不自由な暮らしに耐えている兄の労をねぎらってあげなないといけないのに

ガソリンがなかったからすぐには来られなかったと義兄に言い訳する私、本当は来ようと思えばもっと早く来れたのに

津波の際、迫ってくる津波にあとわずかで飲み込まれる寸前だった義兄の、その時の状況を聞いた

しかし義姉は、義兄より先に家を出たのだが、酪農農家なので、牛舎が気になってそちらを見に行ったらしい

その時牛舎を見に行かないで、まっすぐ高台を目指していてくれれば助かったのに

石巻の妻の実家は北上川の河口ちかくにあり、目の前には3mくらいの高さの堤防がずっと続いている

この地域に住む人たちは、まさか津波がこの堤防を越えてくるとはないだろうと考える人が多かったようだ

地震の後、津波が来るまでに15分~30分の間があったらしい

義兄の周りにはすぐ近所の親戚のおばちゃんがいて、そのおばちゃんの家族は小学校の孫二人とその母親も流されて行方不明とのことだった

50軒くらいあった集落の家が流されないで残っているのはたった2軒だった

人も3分の1が流されたとのこと、一家まるごと飲み込まれていなくなった家が十数軒あるとのこと

地震後にすぐに高台に逃げていれば皆助かっただろうに

義兄は昼間は毎日行方不明の奥さんの捜索を続けていた

避難所にいる家族が行方不明の人たちは皆同じように捜索活動している

私も一日捜索を手伝った

瓦礫を穿り返しながら、泥の中をつっつきながら続けた

まったくやりきれない途方にくれる作業

しかしここに家族が埋もれているかも知れない人にとっては見つかるまで止めるわけにはいかない、義兄だけでなく皆執念で続けている

私はアルバムを瓦礫の中からひとつ拾った

家族の思い出がすべて流されてしまった人たちにとってはアルバムが見付かっただけでも宝物になる

夕方に避難所に戻り、そこで皆さんと夕食を食べたが、出されたのはおにぎり一個、それにわずかな野菜が載っいた

私がいつも食べている半分の量にすぎなかった

津波被災地2011.4.1

義姉の遺体が見付かる

震災の日から20日後にやっと義姉の遺体が見付かった

遺体がまだ見付かっていない人の方が多い中、見付かっただけでもありがたいと義兄は言っていた

避難所では皆仮土葬が当たり前の中、あきらめきれない義兄の息子から、私に「一関近辺で一週間くらいのうちに火葬できるところを探してもらえないか?」と電話がかかってきた

私の兄が一関清掃センターに勤務している関係で運よく一関市内の火葬場を一箇所空けてもらい、釣山斎場とい場所で3日後に火葬できた

避難所からそのままの服装で、身近な親族13人のみでの火葬、その後、予約しておいた世嬉の一レストランでの会食

その時、義兄の長男夫婦も来ていたが、遅く結婚して、待ちに待った第一子が6月に生まれる予定とのこと

義姉が待ちわびていた、その孫の顔を見ることなく逝ってしまった

会食の時、義姉の遺影の前で「俺には最高の嫁だった」と言って、それまで泣いてるのを見たことが無かった気丈な義兄が我慢の糸が切れたように号泣していた

私たちもつられて皆泣いた

それまで泣きたくても同じ境遇の人が大勢いる避難所では泣けなかったのだろう

たぶんはじめてここで泣いたのかもしれない

義兄のことだから、生きてる時にはそんな言葉はかけてあげれなかったのだろう

天国の義姉に聞かせてやりたい

義兄は避難所に戻って明日からまた、まだ見付かっていない同じ地域の行方不明者の捜索を全員が見付かるまで頑張るといっていた

義兄は地域の行方不明者捜索の責任者という立場で毎日先頭に立って捜索活動を続けていたのだった

今回の震災の死者・行方不明者は28000人、これはその28000分の1の家族のお話である

東京の専門学校に通ってあちらで暮らしている私の娘が、今度5月連休で近々岩手に帰ってくる

本人は見たくないと言うかもしれないけど、「この現実を見ておけ」と、帰ってきたら石巻の被災地に連れて行って見てもらおうと思う

この変わり果てた地を、この土地の人たちはこれから復興させていかなければならないんだ

その人たちのこれからの大変さを娘にも思いやってほしいと思う

資金提供者が現れる

神戸にいる私の趣味の自転車の友人が地震の後、10日くらい経って心配してメールしてきた

私の家は大丈夫だけど、妻の実家が大変だったことをメールで伝えた

「何か協力できることはありませんか?」と彼からメール、「ではいくらでもいいので被災地支援カンパをお願いします」とメールを返した

するとすぐ15万円を送金してくれた

彼は自転車ショップを経営しており、本人の手持ち金+そこに来る仲間にも呼びかけてカンパしてもらったそうだ

びっくりした、こんな大金送ってくれるなんて

実は彼は、私とは会ったこともない人である

私の趣味の自転車の部品をインターネットオークションで彼から購入した

それが縁で、それ以来、「おかげで快適に使わせてもらってます」と、神戸と岩手でお互い何度か近況報告しあって、心の通う交流をしていた

彼も実は過去に神戸の震災で被災し全国の人たちから助けてもらったとのことだった

被災者支援活動開始

赤十字等に募金するのは簡単、でもなかなかすぐには被災者の手元には届いていないのが現実のようだ

わざわざ私に託してくれたこのお金、見える形で被災者に役に立つものを直接届けたい

このお金を如何に有効に使うか相当悩んだ

まずは義兄たちのいる石巻の避難所の人たちに喜んでもらえて、全員にいきわたるような何かを届けてあげたい

それには何がいいのだろう

私が行った時、物資は序々に届くようになり、またこれから季節的に暖かくなり衣類や布団類は間に合っているようだ

一方で一食がおにぎり一個など、とても質素な食事

たまたま、そこにわた飴屋さんのボランティアがきていて子供はもちろん、大人まで行列、楽しみの少ない中、こ
ういうのがひと時の楽しみになるのか

他の人があまりやってない物資提供・・・悩んだ末、「甘酒」の提供を思いついた

避難所ではお酒はおおっぴらには飲めない(ねむり薬と称して隠れてのんでいる人はいるいようだが)

私がいつも親しくしている世嬉の一の佐藤紘子専務に相談した・・・それはいいんじゃないの!それなら酒蔵なの
でうちに大量にあるから提供してあげる、ということで300人が5回くらい繰り返し飲んでもらえる量の甘酒の材料の酒かすを無料で提供してくれた

更に砂糖、甘酒に入れるとこくが増す粉ミルクなどを必要分仕入れ、紘子専務が私も行くとおっしゃり、一緒に避難所に届けに行った

避難所2011.4.1


後で義兄から「甘酒おいしかったよ。避難所の皆にも大変好評だったよ」とお礼の電話が届いた

甘酒の物資提供する人は、それまであまりいなかったようである

それならば、これからも甘酒の材料を大量に仕入れ、他の避難所にも甘酒を届けようと思った

私の母親がよく行く鳴子温泉にも、南三陸町から多数の被災者を受け入れているのを知り、そこにも行って旅館のおかみに「皆さんに甘酒をふるまってあげてください」とお願いし、甘酒の材料を届けてきた

また一関市の災害対策本部に出向き、一関市内の被災者受け入れ施設がどこか聞き、瑞泉閣やかみくらに陸前高田から多数の被災者を受け入れていることを確認、対策本部から各旅館へこちらの趣旨を話しておいてもらった

世嬉の一の紘子専務が、かみくらや瑞泉閣のおかみとお友達で、一緒に甘酒の材料を届けに行った

避難者代表の人とその後話をしたが、それまでの風呂も無くプライベートの無い避難所にくらべて、ここは天国のようだとおっしゃっていた

買い物も毎日午前中に旅館の方で市内までのマイクロバスを出してくれるそうだ

ただ、買い物したくても買えない、避難者の中でお金のある人と無い人の貧富の差が結構あるようだ

全国の人たちの善意の義援金から、早く最初の一時金を配ってあげればいいのになあと思う

その後、瑞泉閣のおかみに聞いたら、甘酒は皆さんから好評だったとのこと、よかった

支援活動していて思うこと

こんなことをしたら避難所の人たちに喜んでもらえるかな?・・・独りよがりかもしれない

避難者の中には甘酒はあまり好きじゃない人もいるだろう、こちらが良かれと思ってやったことが実は、余計なお世話だったりして

でも考えてばかりで動かないでいるよりいいのではと思う

必要なものは変化している

こちらが動かないと見えてこない世界がある

会って話してみると、不自由なく暮らせる我々には想像もできないような辛い現実と、これからずっと向き合っていかなければならない被災者の立場が思いやられ、自分が何か役に立てることはないだろうか、せめてひと時のやすらぎだけでも提供したい・・・そんな想いが沸いてくる

一関市には他にも雇用促進住宅に230世帯の沿岸からの被災者の受け入れを準備しているとのこと

その人たちは皆、移動手段としての車を持っているんだろうか

車のない人にはせめて自転車を提供してあげたら助かるのではないか

地元地域の人たちとの触れ合う機会はあるんだろうか

住み慣れた土地を離れてやって来た被災者たちに、友となり少しでも一関に来て良かったと感じてもらえるような何かお手伝いができないだろうか

「たんぽぽの会」の立ち上げ

個人でできることは限られているので、仲間が多いほうが大きなことがやれるだろう

紘子専務が個人でやるより「会」を作ったらと助言してくれた

そんな訳で、震災復興支援の会「たんぽぽの会」を立ち上げることにした

2次避難の方たちを迎えいれる行政や地域の方たちも被災者のことを思って、これからいろいろ動いていくだろう

その中で、ひとりよがりのボランティアの押し付けにならぬよう、被災者の気持ちを汲んで、また周りに関わっている人たちと協調していくことも大切

復興には長い期間がかかるだろう

我々の活動はまだ始まったばかり

気持ちはあっても、知識と経験不足のこんな会ですが、皆様のご指導・ご鞭撻をよろしくお願いいたします

一緒に活動して下さる方、また、こんなことをやれるんじゃないのと、ぜひ皆さんからのアイデアを募集します

これからよろしくお願いします
スポンサーサイト
コメント
コメント
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバック URL
トラックバック
copyright © 2017 Powered By FC2ブログ allrights reserved.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。